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 投稿者:日知美慧子メール  投稿日:2010年 9月 5日(日)14時59分59秒
返信・引用
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白百合の花

 投稿者:Morgen  投稿日:2010年 6月15日(火)01時35分45秒
返信・引用
  20100613撮影/自宅  

真白い花を・・・

 投稿者:Morgen  投稿日:2010年 6月15日(火)01時27分23秒
返信・引用
  「冷たい場所で」

私が愛し
そのため私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩ひに咲かしめよ
昔のひとの堪へ難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷たいこの岩石の
場所にこそ
(『コギト』昭和9/12掲載。因みに「わがひとに與ふる哀歌」は同9年/11掲載。)

 この詩が、「わがひとに與ふる哀歌」に引き続いて『コギト』に掲載されていることに注目して(「冷たい場所で」を「わがひとに與ふる哀歌」の補足または注釈と見ることはできないかという仮説を設定して)、この詩の読み解きを試みてみました。恥を忍んでご紹介しますので、笑って読んでみて下さい。

私が(片思いではあるが,過去に)愛し、(別のひとと私が結婚してしまった今では、昔のひとを幸せにできなくなったことに)後髪を引かれる思いのすることではあるが、(ドイツの詩では)太陽は人々に幸福をもたらすと言われる如く(太陽の恵みを信じて)、そのひとが、新しい分野に未来を託して、(東京へ)雄飛するその姿にエールを贈りたい。
そして
(私は)郷里(諫早)へのノスタルジーに囚われて(同郷のひとと結婚したいという夢を持っていたのであるが)、かつて思いをよせたそのひとを断念するのに堪え難い思いがした。
(私は今)岩石だらけの荒涼とした(朔太郎の「氷島」みたいな)心理状況にある(とても結婚してくれと言えるような家庭状況ではなかったが、それを理解してくれるほかのひとからプロポーズがあり結婚した)。
せめて(昔のひとが)真白い花(白百合の花?)を咲かせてくれたら、私の心はどんなにやすまることだろうと、それを(太陽の恵みを信じて、そのひとが、新しい分野に未来を託し雄飛し、花を咲かせてくれることを)希う。
 

真白き花を

 投稿者:Morgen  投稿日:2010年 6月15日(火)01時22分46秒
返信・引用
     「爽やかな五月に」    (立原 道造)
    月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
    溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
    私は どうして それをささへよう!
    おまへは 私を だまらせた・・・
   [・・・・・]
    はじめての薔薇が ひらくやうに
    泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
    私の心をどこにおかう?

 詩や小説の中でモデルとされたひとの、その後の生涯を扱ったエッセイなどを目にすることがあります。「伊東静雄日記」を読みながら、ふと水戸部アサイさんのことが脳裏に浮かびました。
 立原道造の最後の恋人と言われた水戸部アサイさんから15通の手紙を預かり、『立原道造・忘れがたみ』(文京書房、1975年)を書かれた小川和佑氏によると、栃木出身の水戸部アサイさんは、立原の死後長崎の教会でシスターになってに住んでおられたようです。(また小川氏は長年にわたって彼女の行方を捜されたようです。)
それより先に、中村真一郎氏が軽井沢を訪れたときに偶然にも軽井沢駅で、水戸部アサイさんに遭われたそうです。(同氏の著書で読んだことがあります。)
 「爽やかな五月」も最後となりましたが、彼女の写真と、我が家に咲いた「大山レンゲ」の「真白い花」の写真を添付してみます。

    「爽やかな五月に」    (立原 道造)
    月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
    溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
    私は どうして それをささへよう!
    おまへは 私を だまらせた・・・
   [・・・・・]
    はじめての薔薇が ひらくやうに
    泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
    私の心をどこにおかう?

 詩や小説の中でモデルとされたひとの、その後の生涯を扱ったエッセイなどを目にすることがあります。「伊東静雄日記」を読みながら、ふと水戸部アサイさんのことが脳裏に浮かびました。
 立原道造の最後の恋人と言われた水戸部アサイさんから15通の手紙を預かり、『立原道造・忘れがたみ』(文京書房、1975年)を書かれた小川和佑氏によると、栃木出身の水戸部アサイさんは、立原の死後長崎の教会でシスターになってに住んでおられたようです。(また小川氏は長年にわたって彼女の行方を捜されたようです。)
それより先に、中村真一郎氏が軽井沢を訪れたときに偶然にも軽井沢駅で、水戸部アサイさんに遭われたそうです。(同氏の著書で読んだことがあります。)
 「爽やかな五月」も最後となりましたが、彼女の写真と、我が家に咲いた「大山レンゲ」の「真白い花」の写真を添付してみます。




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「浦上四番崩れ」経緯

 投稿者:Morgen  投稿日:2010年 1月26日(火)17時36分56秒
返信・引用
  1868(慶応4年)3月1日「五箇条の誓文」・・・「旧来の弊習を破り・・・」
太政官布告「切支丹邪宗門の儀は堅くご禁制たり」の高札
隠れキリシタン3414名を捕縛し、全国22か所に配流
1868(慶応4年)神仏分離令・・・神道国教化、廃仏棄釈
1873(明治6年)高札撤去・・・宣教師による布教黙認する

その内、津和野流刑者
1868年(慶応4年)/8月     28名を津和野へ配流(光淋寺収容)
1870年(明治2年)/2月    125名を津和野へ配流(光淋寺収容)
(津和野生まれ10名含め合計163名)

           拷問による殉死者 36名
1873年(明治6年)長崎帰還者   127名

昭和初期  「津和野カトリック教会」創建
1948年(昭和23年) 光淋寺跡(乙女峠)に「マリア聖堂」建設
―永井隆博士「乙女峠」に因む。巡礼地に指定。毎年5月3日に「乙女峠祭」が行われる。
www.tsuwano.ne.jp/kanko/modules/.../article.php?...51
 

津和野・乙女峠

 投稿者:Morgen  投稿日:2010年 1月26日(火)17時24分54秒
返信・引用
  津和野町観光協会のHPです。
 

teacup.掲示板 START!

 投稿者:teacup.運営  投稿日:2009年10月 5日(月)18時08分17秒
返信・引用
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